佐古孔俊鑑定所 日本易学センター認定・日本易学協会々員
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 掲示板・備亡(4)                                      平成19年8月15日(水) 二個の原爆と終戦について                          広島(HIROSIMA、ヒロシマ呼び名)と第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)86AM8時15分にB29(エノラ・ゲイ号)より原子爆弾(リトルボーイ)投下した。これは実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃である。これは都市を対象とこれはした爆撃としては2007年現在史上最大の規模のものであり、この一つの爆弾によって一般市民十数万人が死亡し、都市は壊滅した。都市は壊滅した。                                        長崎(NAGASAKI、ナガサキ呼び名)と第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)89日、AM112 B29(ボックス・カ-号)より原子爆弾(ファッマン)投下した。これは実戦で使われた二発目の核兵器である。この一発の兵器により当時の<msnctyst w:st="on" address="長崎市" addresslist="42:長崎県長崎市;" />長崎市</msnctyst />の人口24万人(推定)のうち約148千人が死傷、建物の約36%が全焼または全半壊した。                                  終戦の日、終戦記念日は、日本においては一般の認識として専ら、盧溝橋事件(盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937(昭和12)77日に北京当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。)以来の対中戦争およびそれに付随しておこった東南アジア各地域での戦争、大東亜戦争の終結を象徴する玉音放送(玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは、天皇の肉声を放送することをいう。特に、1945年(昭和20年)815日正午(日本時間)にラジオ放送された、昭和天皇による「終戦詔勅」の音読放送を指すことが多い。                                                            太平洋戦争(大東亜戦争 / 第二次世界大戦)の敗北宣言を国民に伝える意味を有した。)が行なわれた815日を指すことが多い。しかし、天皇が御前会議での聖断によってポツダム宣言(ポツダム宣言は、1945726日のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。1945810日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを連合国側へ打電。92日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇・政府全権の重光葵と大本営全権梅津美治郎が連合国への降伏文書に調印した。なお、降伏文書として<msnctyst w:st="on" address="宮城県白石市" addresslist="04:宮城県白石市;" />宮城県白石市</msnctyst />の白石和紙が用いられ、マッカーサー元帥が「紙は千年持つそうだが、この条約も千年持つように。」と言ったとされる。)                                             ポツダム宣言の受諾を決定し中立国を通して連合国に通告したのが810日、ポツダム宣言受諾が確定し受諾の詔勅(詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。)が発せられたのは814日、軍隊への停戦命令が出されたのは816日、日本政府が降伏文書に調印したのは92日、ソ連との戦闘終結は94日であり、その後も降伏命令の届かなかった部隊・兵士や、邦人保護のための自衛にあたった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。                                      私は、久間元防衛大臣の様に長崎に水爆が落としてよかったもし知れない。個人的にはそう思う。今では言ってはいけない。    以上

平成19年8月22日(火)甲子園高校野球のフィナレ-

 甲子園高校野球は、決戦で幕を閉じた。佐賀北の活躍(雰囲気)が光る。88日 開幕試合から「福井県・福井商」2:0に勝ち。8月14日に「三重県の宇治山田商」4:4で15回延長(死闘の戦い)、816日に再試合9:1で勝つ 8月17日ベスト16「埼玉県・前橋商」5:2で勝ち819日ベスト8「東東京・帝京」3:4xで勝つ13回延長(ビンチの連続) 821日準決勝「長崎県・長崎日大」0:3Xで勝ち 822日に決勝「広島県・広陵」と対した、劣勢に立ちもうダメと思った。それが大逆転、満塁本塁打が飛び出した。(ミラクルである)。我が要る、背番号18番、「松尾外野手」(甥・妻の弟の3男坊)である。中学時代に全国3位に成っている。手怪我していたので出番がなかった。が8回代走に、出番があった。3:4Xで佐賀北が優勝である。13年前、私が郷里に戻った時、優勝した時に「佐賀商業」似ている。開幕戦と決勝戦そして満塁本塁打まで同じ。また、金メダルを見せてもらう。冥土の土産が増えた。9/15頃土産が来た、佐賀北の優勝と印刷した(記念ボールとタオル)金メダルは正月に見せてもらう。       以上

        

平成19年9月23日(日) 息子の出来事

 下の息子が突然、9/22(土)に福岡の下宿先から帰って来た。ギターを取りに来たと言う。2~3ケ月前からギター弾き始めた。始めは教えていたが(30年前は弾いていたが、今では右麻痺の為、手が使えない)、今度はテキストとDVDを持って来ている。ギターを持ってみたら、上手なる事、リズムが合っていた。段々益しになってきた。夜中3時まで起きていたらしい。9/23(日)ケースが破れているから、ケースを買いに行った。明日も休みだから帰ると言う。「なんで帰るんか」「サッカーがあるから」と言って帰った。覚えが早い事。上の息子を小学校5年位から教えている。上の息子は歌っているから商売にしている。ギターが取り上げられたから淋しい事。          以上

平成199月24日(月) 彼岸の由来と成立                   彼岸とは雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。また、この期間に行われる仏事(彼岸会)のこと。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「はしりくち」という。元々は煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。彼岸の仏事は浄土思想に由来する。浄土思想で信じられている極楽浄土阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられていた(西方浄土ともいう)。春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。元々は中国から伝わったもので、心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)だが、日本に伝来後いつの間にか法要を営み祖先を祀る行事へと変化した。806(大同元年)、日本で初めて彼岸会が行われた。 このとき崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されている。 日本供物で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的である。これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。

きな粉と胡麻                                                                               1271年(文永8年)912日、日蓮が鎌倉の龍ノ口の刑場へ引き立てられていった。急を聞いた桟敷の尼が、なにか最後のご供養をと考えたが、急であったため餡をつくる時間が無く、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮に献上したという。日蓮は、難を免れ佐渡に流罪となった。この故事にちなみ陰暦912日、日蓮宗では「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供える。また「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などと呼ばれている。 以上

平成199月24日(月)江里山の「棚田と彼岸花の見物」(佐賀県小城市<msnctyst w:st="on" address="小城町" addresslist="41:小城町;" />小城町</msnctyst />)                            「るんびに園」「ディ・サービス」では922日(土)~28日(金)まで、バスハイクがあっています。小城市の「江里山」の「棚田と彼岸花の見物」に車で、約30分程で着きます。               秋の到来を告げる彼岸花。稲穂が頭を垂れ、黄金色に輝いた水田を真紅の彼岸花が彩りを添えると残暑のなかにも静かな秋の訪れを感じる。九州の小京都の1つ、佐賀県小城市の江里山【えりやま】地区は「全国農村景観百選」に選定されたふるさとの風景を残す美しい村である。加えて「日本の棚田百選」にも選定されており、この時期棚田の畦【あぜ】に咲き乱れる彼岸花を求めて多くの人々が訪れている。江里山の集落は天山山系の中腹に位置し、標高250mに広がる棚田は約600枚を数える。
水源は天山山系の自然流水で山間の河川に沿って棚田が広がっており、棚田をぬって走る道路を登りつめた所に駐車場(10台程度)とトイレが整備されている。(途中にも小さな駐車場有り)
そこからほどなく歩くと、数段に分かれ高さ約90m「七曜の滝」を見ることができる。奥まった場所でもあり、隠れた穴場スポット。
その他、鎌倉時代に開基された江里山観音(子宝・安産祈願)や甘露水と名付けられた岩清水が湧き出る場所なども程近い場所にあるのでゆったりと散策されるとよい。 以上

平成191019日(金) 佐賀・金立公園・コスモス見学  10/15(月)から10/20(土)まで「るんびに園」「ディ・サービス」ではバスハイクで<msnctyst w:st="on" address="佐賀市" addresslist="41:佐賀県佐賀市;" />佐賀市</msnctyst />の金立公園・コスモス見学に行っています。35分程で行きます「金立公園コスモス園」のコスモスの開花状況は満開です。金立公園コスモス祭」を今年も開催します。会場である金立公園のコスモス園は毎年33万本のコスモスが咲き誇る名スポットです。コスモスに囲まれて秋の心地よいひとときを過ごしてみませんか?    以上

平成1911月21日(水) 海の紅葉 シチメンソウ群生地

 るんびに園では1119日(月)~25日(土)バスハイクに行っています。海の紅葉 シチメンソウ(海岸や河口付近を彩り美しい景観をかもしだす。あたかも七面鳥のように色変わりするのでシチメンソウ(七面草)の名がある)めぐみです。園から車で30分程つきます。 

 佐賀市東与賀町の有明海に面した泥の海岸で、ムツゴロウやシオマネキ、自生した塩生植物のシチメンソウなどが観察できます。昭和天皇の最後の行幸地としても有名で、記念碑と御製碑が建てられています。堤防沿いには、干潟ギャラリーもあり、また干潟よか公園も整備され、広域的公園として親しまれています。
特にシチメンソウは、晩秋の風物詩として有名で、11月中旬には「干潟よか公園」を中心に「シチメンソウまり」も開かれます。

 シチメンソウは、アカザ科の一年草で九州の代表的な塩生植物ですが、現在は希少な植物となっており、環境省・佐賀県から絶滅危惧種に指定されています。東与賀海岸には、長さ1,600m・幅10mにわたってシチメンソウが群生しており、日本最大の群生地となっています

(1)東与賀町海岸展望台

面白し  沖へはるかに汐ひきて  鳥も蟹も見ゆる  有明の海

 東与賀町海岸は、昭和天皇の最後の行幸地として有名です。昭和62523日の訪問を記念して、有明海の壮大なパノラマが広がる展望台に、記念碑と御製碑が建てられています。
 上の歌は昭和天皇最後の歌会で、行幸されたときの有明海の様子を歌われたものです。

(2)干潟ギャラリー

人と空と干潟がつくる自然の青空美術館

 世界最大の干満の差を誇る有明海の干潟を望み、殺風景なコンクリート海岸堤防には、お年寄りから子供たちまでの作品で飾られ、そこは自然の美術館になっています。周辺の環境美化に役立つとともに、いつでも見学ができて好評です。

(3)シチメンソウの里 干潟よが公園

有明海の干潟やシチメンソウなど豊かな自然を最大限に活用し、憩いの場・交流の場・自然とのふれあいと体験の場を備えた広域的公園です。(じゃぶじゃぶ池・大型コンビネーション遊具・草スキー・ボート・おもしろ自転車等)

紅葉庵 江戸時代後期の佐賀平野独特の建築様式である「じょうご谷造り」で建造されています。麦藁・蘆などで造られ、台風対策も考えられた低く、どっしりとした構造です。       以上

 

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